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2007年12月03日

山本保博 監督日誌

12月2日 徳島県鳴門市の島田島を訪れた。鳴門の海をはさんで対岸に淡路島が見える。
62年前の8月2日、この島の2キロ沖で住吉丸が米軍機に急襲され、予科練生など82名が亡くなった。この住吉丸の事件は、「陸に上った軍艦」でも、戦争末期に宝塚海軍航空隊を襲った悲劇として取り上げている。
炎上する船から海に飛び込んだ予科練生を助けたのが、この島田島の漁師の方達である。
危険を顧みず手こぎの船を出した。そして17名の若い命が助かった。
その顕彰碑が、十数年前に淡路島を望む田尻浜に建てられた。
そして昨日、新しいモニュメントの除幕式が行われた。
画家の野尻弘氏による、救助の模様を描いた「慟哭の海」の複製画が、顕彰碑の前に飾られることになった。その「慟哭の海」のタイトルを、新藤兼人監督に揮毫して頂いた。
その除幕式に、映画が縁で僕が呼ばれた。

モニュメントは、地元の人達の寄付によって賄われ、式もまったく島の人達の手作り。
話が持ち上がって3ヶ月程でここまでこぎ着けたとのこと。
地元の人達の思いがいかに強かったのか感じさせられる。
序幕の綱を引いたのは、島田小学校の全校生徒の6人。6年生が4人、5年生が1人、4年生が1人。
その中に一緒に僕も入る。

島田の子供達は、5年前から住吉丸の事件を調べ、自分たちで絵を描き紙芝居や朗読劇として今まで続けてきたという。
モニュメントは、出来上がってしまえば形だが、ここでは、子供達の心のなかに戦争のことを伝えようとすることが、具体的実践的に続いていることに感心した。

その6人の子どもたち描いた絵を見せてもらった。島の身近な生活を描いたものだが、どの絵もいきいきとして人物の表情も豊かだ。正直驚かされた。農林水産大臣賞までもらった子もいる。島の毎日の生活が子供達の心に何を残しているか実感させられた。絵を見ていると、僕まで少し幸せな気持ちを貰った。来年、4人の6年生が卒業すると、6年1人と5年1人の二人だけなる。すぐそこに廃校が迫っている。

十分ほど課外授業として、子ども達に僕はこんな話した。

住吉丸の事件では、14歳の少年が亡くなっている。6年生からすれば、2つほど上のお兄ちゃんだ。そういう子の、人生が突然断ち切られた。その場にいた小学生たちに将来何をしたいか、聞いてみた。
ドッグトレーナーだったり、ディズニーランドで働いてみたかったり、様々だが、誰もが持っている夢や希望を一瞬にして壊してしまうのが、戦争という話をした。それも自分の意志とはまったく関係なく、そういうことが起きる。紙一重で、命を亡くすことになる。

同じ予科練で、偶々住吉丸に乗り合わせなかったため、生き残った方がいた。その方の遺族の奥さん娘さんと一緒になった。生前、その方は度々「戦争は虚しい」と仰っていたという。その話を子供達にしてもらう。もし、その方が住吉丸に乗り合わせ命を失っていたら、今の娘さんもいなかった。

広島では、一瞬にして20万人もの人の生きる希望や夢を断ち切った。そういう大変なことが起こった。
そして、今も世界で、戦争は続いている。

退屈しないか心配だったが、一生懸命、真剣に聞いてくれるのを感じる。

地元の方の中には、住吉丸の事件が、映画にならないかなどの声もあったが、村おこしをしなければ、そのために映画をという気持ちがあるのを感じた。

来年1月13日映画館のなくなった徳島で、「陸に上った軍艦」が上映される。「徳島でみれない映画をみる会」の「がんばれ!! 日本映画」と題した20周年映画祭。徳島映画センターの四宮さんが、イベントに参加されていた。1人でも多くの方に映画をみてもらえればということだった。僕も、島田の人達がずっと持ってこられた平和への思いに重ねて、「陸に上った軍艦」を見てもらえれば有難いと思いながら、映画のこと、アピールする。このイベントには、横浜や京都から参加された方もいて、是非映画をみてみたいという声を聞いた。12月下旬から下高井戸シネマでの上映をお知らせする。

島田の子供達と短い時間だったけれど一緒に話せたことが、楽しく嬉しい時間となった。とても思い出深いものとなった。

2007年11月09日

監督日誌

11月8日
新藤監督の新作「石内尋常高等小学校 花は散れども」の編集作業の合間を縫っての
「陸に上った軍艦」の宣伝のため、東北へ。
12月、岩手、宮城など東北で、初めての上映が始まる。
盛岡では、12月7日のホール上映のため、岩手日報と朝日新聞の取材を受ける。
盛岡での上映会は、93歳の元教師の方が中心となって上映会を企画されたとのこと。
新藤さん同様の、伝えたいという執念を感じる。
我々にとっては、とても有難いこと。
配給を担当して頂くシネマとうほくの樽見さんの案内で、市内を流れる鮭の遡上する川へ。
川には役目を終えた鮭の姿が見えた。そして隣接する公園には、宮沢賢治の詩碑。
紅葉の季節に訪れた盛岡は、とても美しかった。

盛岡の取材を終え、高速で一路、仙台へ。180キロ、二時間弱。
仙台では、12月8日から21日まで、桜井薬局セントラルホールで上映される。
訪れた映画館は、名前の通り、薬局のビルの3階にあるのだけれど、ちょっと趣の
ある映画館。なにかとても良い感じなのである。
陸に上った軍艦」公開に先だって、新藤さんの「午後の遺言状」「縮図」「竹山ひとり旅」
「裸の十九歳」が、11月中旬から特集上映されるとのこと。
また、レイトショウで鈴木則文特集をやるなど、映画ファンが嬉しくなるような、なかなか
意欲的で面白いプログラム。
支配人の小野寺さんが、温厚な感じの方で、あ、この映画館に、この支配人さんありき
だと納得させられる。
仙台での、取材は、河北日報という地元の有力紙と、東日本放送というテレビ局。
試写会を見て頂いた上での取材なので、熱心に聞いてくれた。
「陸に上った軍艦」を気に入ってくれたことを、インタビュアーの方から、十分に感じる
ことができ、こちらも嬉しかった。

盛岡、仙台、以外にも、上映のオファーが来ているとのこと。
一人でも多くの方に、見て頂けたらと思いながら、良い気分で夕暮れの仙台を後にする。

2007年03月15日

2006年10月19日(木)

防空壕のシーンの撮り直し、今日でドラマ部分の撮影が終了する予定だ。準備が終わり本番が始まる頃、新藤さんがセットに顔を出してくださった。モニターの前に新藤さんが座っているだけで現場の空気が変わる。新藤組で何度も経験してきたことだが、このなんとも言えない緊張感がたまらなくいい。気がつくと、前日までに出演場面の撮影がすべて終り、出番がないはずの俳優陣が何人かいる。今回の現場に直接携わっていないスタッフ仲間の顔も見える。新藤さんが来てくださることを聞いていたのか、ドラマ部分の撮影最終日だからなのか、こうして自分の出番がない現場にわざわざ足を運んでくれる。映画とは、こうした人々の思いが積み重なって出来上がっていくものだと思う。この現場にいられる幸せをつくづく感じてしまう。
撮影にご協力下さった皆さん、ご支援していただいた方々、スタッフ、キャストの皆さん、本当にありがとうございました。

2006年10月15日(日)

木で作った模擬戦車に向かって、“アンパン”と呼ばれた地雷を投げつけ、敵戦車を殲滅するという訓練の場面。ここで撮影に使った戦車は、東京土建一般労働組合の協力で作っていただいた。当時は有り合わせの材料で工作兵が作ったということで、「訓練用に急ごしらえで作ったチャチな物を」とお願いしたが、職人の意地か、土台のしっかりした戦車上部の砲台まで回転する、大層立派な木造戦車が出来上がった。“汚し”をかけ、天板を少しはずして撮影したが、終了後、解体するのが一苦労であった。きちんと骨組みに溝を切って組み合わせてある本格的なつくりで、「手を抜かない仕事」が体に染み付いている技術者の一端を垣間見た。

2006年10月12日(木)

新藤、森川らの入湯外出先の下宿として台東区谷中の民家を借りて撮影を行う。下宿に着くと森川には最愛の妻が待っており、二人はそのまま二階へ上ったきり降りてこない。今日逢えても次に逢える保証は何もない。明日の不安をふりはらおうとするかのように、互いを求め合い、生を確かめ合う夫と妻。今日の生と明日の死が当たり前に同居している日常に、恥ずかしさや照れは消えてなくなる。そんな夫婦を、何もかも分かったというようにあたたかく見守っている下宿の母娘ウメと八重。二人を演じる二木てるみさんと今井和子さんのなんという存在感。ただ座っているだけで、夫婦の情、人間の性(さが)の何たるかを伝えてしまう・・・その年輪に脱帽です。

2006年10月08日(日)

当時、宝塚大劇場の近くには動物園や植物園があった。
今日の撮影は、入湯外出で久しぶりに家族と会った新藤の同年兵・山倉が、近くを通りかかった上官に気づかず欠礼(敬礼をしなかった)したため、妻・子の前で鉄拳制裁を食らうという場面。神奈川県の小田原城址公園のぞうの檻付近を借りての撮影。何事かと集まってくる野次馬役を、地元の方々にエキストラ出演していただいた。「我々にとって軍隊を一歩出たらシャバ、隊内では本当に厳しかったですがシャバに出たら大分緩やかでした」と太宰さんはおっしゃっていたが、妻子と一緒のつかの間のひととき、上官に気づかず敬礼を忘れた部下をこれ見よがしに殴る将校、これが“人を殺すことが正義”を余儀なくされた軍隊の本質なのか。

2006年10月08日(日)

今日で軍隊生活の核心部分の茨城ロケが終った。最終日は玉音放送の意味が隊内に伝わり、一変した雰囲気の兵隊たちの様子を撮影した。一足早く東京に引き上げる、撮影の終った俳優たちを乗せたバスの中にも、なんとも言えぬ開放感があった。たった6日間のロケであったが、とても長く感じられる密度の濃い時間であった。

2006年10月07日(土)

大子町の旧西金小学校校庭で防空壕外部撮影の後、旧初原小学校へ移動して防空壕への出入り、夜になって講堂に組んだセットで防空壕の中の場面を撮影。連日に渡る早朝から深夜までの撮影でスタッフの疲労も極限状態になって来た。撮影の進行状況と俳優のスケジュール、天気予報の動き、そして予算などを考えながら製作担当とチーフ助監督が現場の舵取りを行っていく。日付が変わる頃、神妙な顔で二人が相談に来た。結局、茨城ロケを一日延期することになった。

2006年10月06日(金)

茨城ロケでは撮影の合間、海軍の所作指導をお願いしている太宰さんの周りに、出番を待つ俳優たちの輪が出来る。これまでこんな身近に戦争体験を聞く機会がなかった俳優たちが、当時のことを今も生々しく語る太宰さんの言葉に熱心に耳を傾けている。聴きたいと思って集まっている。自分と同じ年齢の頃に、特殊潜航艇による特攻要員だった太宰さんが体験してきたこと、あれから60年以上経た今太宰さんが思っていること、若い俳優たちの胸にどんなふうに響いているのだろうか。この映画に参加してくれた俳優たちが仕事以外の何かを持ち帰ってくれるといいと思う。

2006年10月05日(木)

武器庫から鉄カブトが紛失したので、犯人の追及が始まるという場面の撮影。飛行訓練と称した、腕立ての姿勢から飛行機を真似して「左旋回」「右旋回」「急降下」「急上昇」の号令とともに片手一本で体を支えたり、足を持ち上げられての腕立て伏せなどを次々と行う、訓練という名の制裁。汗で、床に人型のしみが出来たという。よくもこんなことを考えたものだとあきれるような過酷な訓練である。

2006年10月04日(水)

入隊当初100名いた新藤の同年兵も10名になり、さらに4名が海防艦の機関銃射手として出発していくという別れの場面。「同年兵は家族以上の結びつきで、何でも話せる心の支え(新藤監督談)」という仲間が、くじ引きで戦地に送られる。しかもそのくじさえ自分で引けず上官が引く。軍隊の規律に生死を任せるしかない絶対服従の世界。整列して送り出す側と、死が約束された戦地へ出て行く側、文字通り紙一重で運命が決まっていく。別れを惜しみ無言で抱き合う一瞬に万感の思いがこもる。当時、こんなことは日常茶飯事であったであろう。こうして家族や愛する人に思いを残しながら、多くの先人たちが亡くなっていったのだと思うと胸が詰まる。

午後からは甲板掃除の場面。海軍では、陸上で暮らしていても軍艦に乗っている時と同じ生活をするのを建前にしているので、宝塚大劇場の床を船の甲板にみたて、毎日掃除をするのだ。四つんばいになり、麻で出来たモップを持って床を磨きながら後ずさりをしていく。真似してちょっとやってみたが、すぐに息の上るきつい作業だ。俳優たちも何度もテストを重ねていくうちにへとへとになり、否が応でも迫真の演技?となる。

2006年10月03日(火)

軍隊生活の大部分を撮影する茨城県北部の大子町(だいごまち)へ入る。宿舎に荷物を預け、すぐに木造の初原小学校・校舎跡に入り、リハーサルと、各パート撮影の準備。美術部、製作部、演出部で、校舎の窓に爆撃によるガラス飛散防止のための紙を×じるしに貼っていく。小学校がだんだんと兵舎になっていく。それとともに、いよいよドラマ核心部分の撮影が始まるという緊張感も高まっていく。

2006年10月02日(月)

長野県茅野市の龍神池周辺でのロケを予定していたが、雨天のため中止。昔から「活動や殺すにゃ刃物は要らぬ、雨の3日も降ればいい」という言葉があるが、撮影はいつも天気とにらめっこだ。このところの不順な天候は先行きとても気がかりである。

2006年10月1日(日)クランクイン

いよいよ今日からドラマ部分のクランクイン。新藤と同年兵5人の出征前の生活を紹介する場面から撮影が始まった。新藤はシナリオライターになるまでを支えてくれた愛妻に先立たれ一人暮し。京都の新興キネマがつぶれ松竹大船脚本部に移籍し、1本もシナリオを書かないうちに召集令状が来た。森川は妻と二人で洋服の仕立てをやっている。佐久間も妻と八百屋を、皆川は旋盤工、山倉は理髪店をやっていた。戦局が厳しくなる中、覚悟をしていたとはいえ、皆、家族と普通に暮らしていたところへ赤紙が来て召集された。出征当日の朝撮影された写真の中で、新藤兼人監督は煙草をくわえて不敵に笑っているが、皆、召集令状一枚で否応なく死と直面させられる生活となった。

2006年9月25日(月)

この作品は軍隊生活場面が中心のため女優の出演場面が少ない。そんな中で存在感を示してくれる二木てるみ、今井和子、加藤忍さんらの衣裳合わせ。森川の妻役の加藤さんは、洋服屋だけにモダンな洋服姿で登場することになった。

2006年9月24日(日)

前日に引き続きリハーサル。今日は元予科練の太宰信明氏に来ていただき、海軍の基本的な所作の指導を受ける。帽子のかぶり方から敬礼の仕方、号令のかけ方、上官との接し方など、一つ一つを太宰さんの模範に従って訓練していった。帽子の中央に折り目をつけて目深にかぶり、海軍式敬礼を身につけただけで驚く程海軍兵らしくなっていく。現代の若い俳優が、きびしい軍隊で暮らした兵隊の雰囲気をどれだけ出せるか懸念していたが、太宰さんの指導のおかげで、少しは様になってきた。でも、どんなに所作を真似ても演技は演技、どこまで時代の空気を伝えることができるのだろうか。

2006年9月23日(土)

俳優陣勢揃いで順次衣裳合せならびに持ち道具の確認を行う。軍隊では階級によって制服や装具が異なるので、配役ごとに、さらに場面ごとに、帽子から靴・ベルト・軍刀・ゲートル、髪形(といっても今回はほとんどが坊主頭だが)メイクに至るまでひとつひとつを確認して行く。助監督・衣裳・装飾・小道具・メイクなど各パート、撮影準備の最終段階である。
午後からは新藤先生に来ていただき、衣裳・装具を身に着けたままのキャスト全員とスタッフで話しを聞く。台本に書かれていることを実体験してきた実在の人物を前に緊張する若手俳優陣、ひとこと、ひとことがそれぞれの役に魂を吹き込んでいく。
続いて、リハーサルに入る。山本監督の指示のもと甲板掃除、直心棒での制裁など、次々と稽古が繰り返される。最初のうちは、にこやかな表情でアドバイスをしていた新藤先生も、熱がこもってくると立ち上がり身振り手振りで自ら体験した軍隊生活を説明する。「いやいや、そうじゃないんだ。こういう風にやるんだ」
60年以上前のことを何のためらいもなく語る新藤先生のおそるべき記憶力、それとも忘れようもないほど徹底的に身体に刻みこまれた苛酷な体験なのか。